ご由緒

江戸時代享和元年刊行『河内名所図絵』にみる「星田妙見宮」
享和元年刊『河内名所図絵』にみる「星田妙見宮」

 

当宮の縁起によりますと平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間(810~823年)に、弘法大師が交野へ来られた折、獅子窟寺吉祥院の獅子の窟に入り、佛眼仏母尊の秘法を唱えられると、天上より七曜の星(北斗七星)が降り、3ヶ所に分かれて地上に落ちました。現在もこの伝説は当地に残っており、星が地上に落ちた場所として、一つは星田傍示川沿いの高岡山東の星の森、もう一つが、この星田乾にある降星光林寺境内、そしてもう一つがこの当宮の御神体であると伝わっています。後に弘法大師は当宮の地に赴き、大師自ら「三光清岩正身の妙見」と称され、「北辰妙見大悲菩薩独秀の霊岳」、「神仏の宝宅諸天善神影向来会の名山」としてお祀りされました。後世には淳和天皇、白河天皇、後醍醐天皇を始め楠木正成、加藤清正以下、農民にいたるまで崇敬を集めたと伝わっております。これらの由緒は平安時代貞観17年(875年)の『妙見山影向石縁起』並びに江戸時代に書かれた当宮の縁起書に記載されています。

                 

平安時代には「神禅寺」と称されており、河内長野の天野山金剛寺の古文書には「嘉承元年(1106)9月23日、星田神禅寺」と見えます。また『東和久田系図』延宝6年(1678)には、「采女迄三代妙見之別当ショクニシテ御供燈明捧ゲ御山守護到由候緒也」と記されており、応永9年(1402)生まれの和田出雲安直・将藍安道・采女安国の三代にわたり、当宮の別当職であったことが分かります。天文4年(1535)神明帳には、小松大明神と記されています。

 

当宮の七夕祭祀

星田妙見宮 七夕祭
星田妙見宮 七夕祭

 

当宮は古くから伝統的な七夕祭祀が行われておりました。享和元年(1801)に刊行された『河内名所図絵』には「妙見祠 妙見山にあり。神躰巨石三箇、鼎の如く岐ちて、丘の如し。前に石の鳥井、拝殿、玉垣、石段あり、土人、織女石とも呼ぶ。」とあります。織女石とは七夕の織姫を祀る石ということです。また、江戸時代初期の儒学・本草学者として著名な貝原益軒の紀行文『南遊紀行』にも「此谷のおくに、星の森有。星の社あり。其神は牽牛織女也。」と当宮のことが記載されています。このように古くから当宮は七夕の神様としても知られておりました。

 

これを裏付けるように妙見宮拝殿前の磐座の両側に建立されている江戸時代初期の灯籠には、「妙見山 奉寄進元禄三年 七月七日 一橋左京政勝」と刻まれており、七夕ゆかりの日に寄進されたことを物語っております。また、平成20年の拝殿改修工事の際にも、七夕と書かれた墨跡が発見されております。

 

当宮の地を含む現在の枚方市、交野市のあたり一帯は平安時代の頃には「交野が原」と呼ばれ、古くから七夕伝説が伝わっています。交野ヶ原は元々広大な原野で大きな川が流れていた事もあり、多くの野鳥が生息していました。そのため、平安貴族たちの狩猟地として栄えていました。『古今和歌集』には交野ヶ原で在原業平が惟喬親王の狩猟の供をした時に『狩り暮し 棚機津女(たなばたつめ)に 宿借らむ 天の川原に 我は来にけり』と詠んだ歌が載っております。この頃には既に交野ヶ原に七夕伝説が定着していたものと思われます。

 

≪御祭神≫

天之御中主大神(アメノミナカヌシノオオカミ)

高皇産霊大神(タカミスビノオオカミ)

神皇産霊大神(カミムスビノオオカミ)

仏教では北辰妙見大菩薩

道教・陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神

 

≪境内末社≫

【鎮宅社】
太上神仙鎮宅霊符神

【三宝荒神社】
三宝荒神

【豊臣稲荷社】
保食大神

【竜神社】
金色龍王

【下社稲荷社】
倉稲魂大神

【祖霊社】
歴代宮司、社守の御霊