太上秘法鎮宅霊符

 霊験無比なる「太上秘法鎮宅霊符(たじょうひほうちんたくれいふ)」

 

「太上秘法鎮宅霊符」と呼ばれる七十二種の護符。現在の所、道蔵の『太上秘法鎮宅霊符(たじょうひほうちんたくれいふ)』が原典とされ、中世初期に伝来したものと考えられている。陰陽道に限らず仏教、神道などの間でも広く受容された。この霊符を司る神を鎮宅霊符神というが、元来は道教の玄天上帝(真武大帝)であると考えられている。玄天上帝は玄武を人格神化したものであり、北斗北辰信仰の客体であった。それ故日本へ伝来すると妙見菩薩や天之御中主神等と習合し、星辰信仰に影響を与えている。星辰信仰の客体であり、また八卦が描かれるため陰陽道では受容しやすかったものと思われる。

 

 

当宮に伝わる「太上神仙鎮宅七十二霊符」は日本では最も有名な霊符の一つである。陰陽道最高の神ともされる「太上神仙鎮宅霊符尊」は神通第一にして霊験無比なること、この天尊(七十二霊符)に及ぶものはないとまでいわれた。大峰山よりも七年前に修験道の根本道場とされた日本最古の霊場である犬鳴山は役小角によって開かれ、役小角自らが霊符の神様・鎮宅霊符神をお祀りしている。役小角は熊野権現と鎮宅霊符尊を御同体であると見なしていたようである。

 

 

赤城峰霊符山太陽寺を中興した弘宗禅師の書である『太上神仙鎮宅霊符考』並びに後の同寺の住職甫童が文化五年に刊行した『霊符縁起修法伝』によれば、当地は唐天台山より赤山権現が飛来した霊地で、聖徳太子が一刀三礼して彫刻した鎮宅霊符を本尊として祀っていたが荒廃。その後弘宗の夢に一人の翁が現れ、禅師を当地に導いた。そして禅師は大用禅師から伝教大師縁の霊符法ならびに霊符曼荼羅を伝授され、太陽寺を拠点に鎮宅霊符神信仰を広めたという。

 

奈良市の鎮宅霊符神社は、『元要記』(鎌倉時代)によれば、「鳥羽院の御宇、永久二年(一一一七)年正月、興福寺に行疫神(こうえきしん)(疫病神)の社壇が建立され、南都四家の陰陽師(おんみょうし)がこれを祀る」とある。

烏丸鞍馬口から東へ少し行ったところに黄檗宗の尼寺瑞芝山(ずいしさん)「閑臥庵(かんがあん)」がある。江戸時代初期、後水尾法王の枕元に鎮宅霊符神が立ち「我を貴船の奥の院より洛中へ勧請せよ」との神託を顕した。そして後水尾法王の子、霊元天皇が現在の地に寛文一一年(一六七一年)遷座せられたのがこの鎮宅霊符神の御廟である。王城鎮護の為に貴船の奥の院から鎮宅霊符神をこの地に歓請し、初代隠元禅師から六代目の黄檗山(おうばくさん)萬福寺管長千呆(せんがい)禅師を招いて創建したといわれる。この鎮宅霊符神を開眼したのが、当時の陰陽師である安倍晴明であると言われる。

 

つまりこの神様は安倍晴明ゆかりの神なのである。明治初期には伝空海作の鎮宅霊符神をここに安置したと言われている。
群馬県高崎市鼻高町の少林山達磨寺 霊符堂はかって曹洞宗寿昌派の祖の東皐心越が鎮宅霊符神を伝来し、前橋城の裏鬼門除として創建されたという。このように仏教寺院にも大いに信奉され、空海・最澄を始め、楠木正成・加藤清正などその霊験に帰依した歴史的人物は、数多にのぼる。